「非業の最期を遂げた人体にずっと関心を持ってきた」と、竹屋修さん。岐阜市在住の二科会会員の彫刻家が地元で初めて開いた本格的な個展「思考する土塊」で、その奇っ怪な作品群に出会った▼床にひっくり返り、祈るように両手を結んだ裸体。目を見開き、息を飲むような表情で断末魔を迎えた顔…。ただならぬ場面に足を踏み入れてしまったような興奮がやがて冷めると、一つ一つの作品が多弁に語りかけてきた▼陶彫といってもかなり大きい。しかも繊細だ。ほぼ等身大の人体に刻まれた皮膚のしわのような線刻は、作家の心のひだをなぞったようにも見える。「死を突き詰めることで生が見えてくる。死の形をモチーフに生を表現したかった」▼ジャンルは違うが、冬の森で死んだ一頭のシカの死体を追い続けることで自然の輪廻 (りんね)を見事に写し出した伊那谷の動物写真家、宮崎学さんの写真集「死」を思い起こした。生生流転の自然の摂理。宮崎流に言えば「死は生の出発点」ということになる▼同じ「死」に目を向けても、竹屋さんの視点は異なる。時の移ろいで形は朽ぢ果てようとも容易に消えようとしないもの。現象としての死の形から「人」そのものをつかみ出し、見せてくれる。手によくなじんだ陶という手法で具象に「思考」を潜ませ、見る者にも問い掛けてくる▼生と死。出会いと別れが交錯する季節に、ふと立ち止まって考えてしまう永遠のテーマだ。 |